2013年11月4日月曜日

厳島神社を作った権力者たち

厳島神社は、世界遺産に登録されている。日曜日ということもあって、沢山の人が訪れていた。


厳島神社は、古くは、伊都伎嶋神社、と別な文字で書かれていたようで、今の広島県の辺りであった安芸の国の一宮でもあった。

平安時代に末期に突如として権力を握った平清盛が、この神社を厚く信仰し、今の境内の元になっている、壮大な境内を建て、奉納した。

清盛が建てた当時の境内は、1207年、1223年の2度の火災ですべて失われてしまい、現在の境内は、その後に再建されたもの。


厳島神社の魅力の一つは、境内の構造が複雑なため、歩く度に、建物の見え方が徐々に変化していくことにある。写真好きの人にとっては、撮影ポイントがあちらこちらにあって、楽しめる。


この日は、お日柄もよく、結婚式が行われていた。多くの観光客が、その結婚式を見物していた。

厳島神社は、宗像三女神という3人の女神を祀っている。この宗像三女神は、総本社の福岡の宗像神社で、海の神、船の航行の神として祀られている。

厳島神社の名前は、その宗像三女神の3番目の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)からとられている。



毛利元就は、戦国時代の1555年、陶晴賢率いる大内軍の大軍をこの宮島の狭い土地に誘い込み、圧倒的な勝利を得て、中国地方の覇者となった。

大内家は、古代朝鮮の百済の聖明王の子孫であると名乗り、平安時代から周防の地の役人を務めていた。

鎌倉時代には、周防の地を支配する家となり、朝鮮半島とも交易を行っていた。聖明王の子孫と名乗ったのは、その交易の便のためだったのかもしれない。

室町時代には、有力な守護大名となり、明や朝鮮との交易で莫大な富を得た。有名な画家の雪舟は、大内氏の招きで周防の地で長く活躍し、その大内氏の強力で明の国に渡っている。

そうした大内氏が、新興の毛利氏に滅ぼされた、ということは、戦国時代を象徴する出来事だった。そこには、平安貴族の時代の終わりをもたらした、平清盛の姿に重なるものがある。

元就は、その勝利にはこの厳島神社の力が大きく働いていたと考え、その後、この神社を深く信仰するようになった。現在の本殿は、1571年に毛利元就によって改築されたものである。

この厳島神社は、そうした時代の変化をもたらした権力者によって支えられてきたという、不思議な由縁を持っている。


本殿の右側、参拝路の最後の方に、能舞台がある。この時は、潮がまだ来ていないが、潮が満ちると、この舞台は、日本で唯一、海の上に浮かぶ能楽堂になる。

現在の能舞台は、江戸時代に安芸の国の藩主であった浅野氏が1680年に建てたもの。それ以前には、その前の藩主だった福島正則が建てた能舞台があった。


本殿の後から、海の上に建てられた鳥居が見える。この神社は、この海の上で繰り広げられた、様々な歴史絵巻を、ずっと見続けてきたのだろう。

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