2013年9月23日月曜日

広島といえばお好み焼きに尾道ラーメン

旅の4日目の宿は、広島のリーガロイヤルホテル。広島県庁の向かいにあり、ショッピングモールの一角に入っており、便利な場所だった。


その日の夜は、そのモールにあったお好み焼き屋へ。広島に来たら、やはりお好み焼きは外せない。


目の間の鉄板で焼いてくれて、そのまま席の前まで持ってきてくれる。このパターンが好きだ。

お好み焼きは、千利休が作った麩の焼きがその起源といわれている。江戸時代から明治時代にかけて、様々に進化したが、関東大震災以降、食料不足を補う意味で、非常にポピュラーになったという。

広島では、終戦後に、今のキャベツ、もやし、そばなどを入れる形が定着した。お好み焼きは、常に、庶民とともにある食べ物だったのだ。


外国からの観光客と思しき二人連れも、楽しそうにお好み焼きをほおばっている。


翌日、もう一つの広島名物を求めて、市電で広島駅へ。

広島市内の道路は、ほとんどが綺麗に舗装されているが、この市電の線路周辺は、赤色のレンガのようなものが敷き詰められている。

各駅は、道の真ん中に作られているので、乗り場は、人が行き交うのがやっとくらいの広さしかない。イスがない代わりに、寄りかかることができる、太いパイプのようなものが設置してある。


広島駅に併設したビルの2階にあったラーメン屋へ。広島カープの選手もよく訪れるようで、店の入り口には、選手のサイン入りのユニフォームやジャケットが、立派な額縁に入れて飾ってあった。

カウンターに座り、尾道ラーメンを注文。勿論、メニューには、”尾道ラーメン”などとは書いていないが。

味は、魚ベースのあっさり醤油味。ふつうに、おいしい。

店内を見回すと、張り紙が。この店は、普段は9時くらいには閉めてしまうようだが、広島カープが勝ったときは、夜11時過ぎまで開けているとのこと。さすが、広島。

広島城跡を散策する

旅の4日目。午後、原爆ドーム、広島平和記念資料館を見学し、まだ少し時間があったので、広島城を訪れた。

今回の旅で、城を訪ねるのは、高松城、松山城に続いて3つ目。何とも、城と縁のある旅だ。


城への入り口になっている表御門を渡る。堀にかかる橋は、最近建て替えたようで、歩いていても、木の匂がする。それが、心地よい。


城内に、広島護国神社が建っていた。

この神社には、戊辰戦争で亡くなった広島藩士、そして、広島の原爆などで亡くなった92,000人の人々が祀られている。


広島城は、戦国時代の武将、毛利元就の孫にあたる、毛利輝元によって建てられた。

当時の広島は、まだ太田川の河口の土地にすぎなかった。毛利輝元は、豊臣秀吉が大阪の淀川沿いに築いた、壮麗な大阪城を見て大きな衝撃を受け、この地に城を建てることを決めたといわれている。

そもそも、広島、という名前も、その時に、毛利輝元によって名付けられた。

時代は、戦国時代の戦いのための山城の時代から、戦争がなくなった後の、治世のための平城の時代になっていた。

毛利輝元は、関ヶ原の戦いで西軍に属して破れ、広島城は福島正則に与えれた。その福島正則も、改築の禁を犯し、この城の当主は浅野長政の子、浅野長晟に代わった。浅野家は、そのまま幕末まで、この城の城主だった。



天守は、広島城の歴史や、広島の歴史が学べる博物館になっている。勿論、天守の一番上に登り、広島市内を一望できる。

天守の外観は、木造になっているが、内部は鉄筋コンクリート。建物の真ん中にあった階段を上りながら、天守の最上階を目指す。その手すりの鉄の冷たい触感が、外観とのギャップを感じさせた。

実は、広島の江戸時代の様子は、意外と知られていない。城下町を描いた絵図が展示されていたが、それをもとに、調査が行われているという。

毛利輝元が建て、それ以来、ずっと使われ続けていた天守は、原爆が落とされた時に、その爆風で倒壊してしまった。あるいは、自らの重みで倒れたとも言われている。

現在の天守は、1958年に再建されたもの。


天守から降り、城内をブラブラしていると、古代の遺跡のような柱の跡があった。近づいて見ると、広島大本営跡という看板が立っている。

この広島には、日清戦争が開戦された時に、大本営が置かれていた。その間、明治天皇は、7ヶ月余り、広島の地に滞在した。

その関係で、第7回の帝国議会も広島で開催され、広島は、一時臨時の首都でもあった。


ホテルからは、広島城が一望に望めた。かつては、天守が、広島では一番高い建物だったのだろう。しかし、今では、残念ながら、高さでは、目立たない存在になってしまった。

2013年9月16日月曜日

広島の原爆ドームと広島平和記念資料館にて

広島には、昔から一度は訪れたいと願いながら、これまでその機会がなかった、特別な場所があった。

それは、広島の原爆ドームと広島平和記念資料館。

今回の旅の中で、ようやく、その場所を訪れることができた。


原爆ドームは、ちょうど補強工事を行っていた。原爆が投下されてから、すでに68年。原爆の影響を象徴するこの建物も、老朽化が進んでいる。

しかし、この建物は、これからも残していかなければならない、大切な遺産だ。


建物の近くに寄ると、内部の様子もよくわかる。原爆が落とされたときの、凄まじい高温と爆風に絶えた建物だけに、実に堅牢に設計され、建てられたことが伺える。


原爆ドームを後にして、元安川にかかる橋を渡ると、広島平和記念公園に入る。

この日、朝は晴れていたが、突然に黒い雲が広がり、雨粒が落ちてきた。

この公園のある土地は、もともとは人々が暮らす住宅地だったが、原爆によって焼け野原になってしまった。

その跡地が、1954年4月1日に広島平和記念公園として開演した。公園全体の設計は、コンペにより選ばれた丹下健三が担当している。

平和の記念碑であると同時に、そのシンプルでかつ厳かな佇まいは、日本の現代建築の大きな成果でもある。


公園の中に、広島平和記念資料館がある。入場料はわずか50円。勿論、営利目的の施設ではない。原爆とはどんなものか、それによって、広島という町が、どのようになってしまったのか、を一人でも多くの人々に見て欲しい、というのが、その50円という金額の意味である。

その趣旨は、多くの人々の心に伝わっているようで、館内は、実に多くの人でごった返していた。


1945年8月6日午前8時15分。人類の科学技術の進歩の成果でもあったその爆弾は、広島の爆心地の上空600メートルで炸裂。その炸裂時に中心の温度は100万度を超えていた。

爆心地の周辺は、ほぼ同時に3000〜4000度の熱に包まれた。その瞬間にその地域にいた人々は、文字通り一瞬の内に、何も残さずに、骨まで燃え尽きてしまった。

この爆弾の実験は、何度も、念密に行われ、この爆弾を使用した人々は、この爆弾が爆発した際に、どのようなことが起こるかを正確に理解していた。

この場合、アメリカとか日本とか、そうした些細なことには、何の意味もないだろう。

人間とは一体どんな生き物であるのか、ともし問われたら、この1つの爆弾に関する物語を語ることで、その答えになるのではないか。


原爆が広島に落とされた時、広島には、およそ35万人の人がいたといわれている。同じ年の12月末までに、そのうち、14万人が死亡したという。

そうした人々に、私は合掌することしかできない。

人間という生き物には、わずかながらの学習機能があるようで、幸いなことに、広島・長崎以降、原子爆弾を受けた都市はない。

これからもそうであるという保証は何もない。むしろ、その可能性は、より高まっているのかもしれない。

2013年9月14日土曜日

松山港から広島港への海の旅

旅の4日目は、午後、松山観光港から高速フェリーで広島に渡った。2日目の、直島を経由した宇野港から高松港への移動に続き、この旅で2回目の船の旅。

松山駅前から港まではリムジンバスが運行しており、30分ほどで港に到着する。

港のターミナルビルは、こじんまりとはしているが、新しくガラスが多く使われた美しい建物だった。


松山観光港から広島港までは、スーパージェットとよばれる高速フェリーで、およそ1時間ほど。途中、呉港に寄る。

この日は日曜日だったが、さすがにフェリーで移動する人は少ないようで、船内に人影はまばら。そのおかげで、ゆったりとした船旅が楽しめた。


熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

かつて、額田女王がこの歌を詠んだという、熟田津の正確な場所は特定されていないが、この松山周辺の港だったという。

大和朝廷の斉明天皇率いる軍勢が、唐と新羅の連合軍と戦った白村江の戦いに向かうために、一時、この辺りに立ち寄ったという。上の歌は、その際に詠まれたものだ。

その時、斉明天皇一行は、松山の道後温泉に立ち寄った、と伊予国風土記の断片は伝えている。

時代が下り、夏目漱石が、松山の中学校に赴任するために降り立ったのは、松山観光港より少し南にある三津浜港だった。

いずれにしろ、このあたりには、多くの港があり、海からそれほど遠くない所に道後温泉もある、といったよい環境で、古くから、人々が暮らしやすい土地だったのだろう。


呉港に近づくと、音戸の瀬戸というところで、本州と倉橋島の狭い海峡の間を抜けていく。2本の橋が架かっているが、泳いで渡れそうな距離だ。

この海峡は、平清盛が、わずか一日で開削した、という伝説が残っている。

このすぐ向こう側にある、呉港への出入りには確かに便利だ。この海峡がないと、瀬戸内海に出るには、広島の方を迂回しなければならない。


音戸の瀬戸を抜けると、呉港が近づきコンビナートのようなものが見えてきた。

この地は、戦国時代は、村上水軍の本拠地であり、明治以降は日本最大の軍港となった。戦艦大和が建造された場所としても知られる。第2次大戦時には、40万人の人が暮らし、日本で10番目の大きい都市であった。現在も、海上自衛隊の呉地方隊が置かれている。


松山観光港かたいっしょに乗り込んだフェリーの乗客の中に、角刈りで大柄の数人の集団がいた。始めはよくわからなかったが、大挙してこの呉港で下船していった。彼らは自衛隊員だったのだ。

皆、大きなスポーツバッグを担いでいた。どこかで休暇を過ごしていたのか、あるいは、単なる移動だったのか。


呉港を出ると、すぐに広島港についた。

2013年9月8日日曜日

松山城からみた景色

瀬戸内を巡る旅の4日目。午前中、松山城を訪れた。

道後温泉から、路面電車で松山城の近くで降り、ロープウェー乗り場へ。松山城は、勝山という標高120メートルほどの小高い山の上に建っている。


豊臣秀吉の子飼の武将、加藤嘉明が、この地に封じられた際に、この城を築いた。現在の天守は、江戸時代の末に建てられたが、江戸時代以前に建てられた天守で現存するのは、全国でわずか12しかないという。

加藤嘉明は、その後、会津の蒲生氏が去った後の会津に移動となり、代わって藩主となった松平氏が、幕末までこの城の主となった。


天守の最上階からは、松山市内が一望に見渡せる。

正岡子規は、この城下町をテーマに、いくつかの俳句を残している。日清戦争の従軍記者を務め、その激務から大量の吐血を起こし、明治28年に松山に療養で戻った際に詠んだのが次の句。

春や昔十五万国の城下かな

この昔という言葉には、一般的な歴史の時間の流れと、自分の人生の流れと、その二つの時間の流れの中での意味が、含まれているように思える。


遠くに、松山港と瀬戸内海が望める。午後は、その松山港から広島を目指す。


城内にあった桜の木。水墨画の絵の中で、よく描かれているように、直角に曲がった枝が印象的だった。


この日は、とにかく暑かった!天守近くにあった売店で、伊予柑ソフトクリームに飛びつく。伊予柑の果実も少しついいて、美味しかったなあ。


天守に向かうまでに、いくつもの門を通っていく。その度に、あたらしい建物や景色が現れて、見学者を飽きさせない。

この城が最初に建てられたのは、江戸時代以前で、当然のことながら、そうした構造は、この城を攻めようとする敵を混乱させるために、このような複雑な建築となったのだろう。

現代の平和な時代にあっては、まるで迷路のように感じられ、観光にはうってつけの場所になっている。2009年にはミシュランガイドで二つ星に選定された。

2013年9月7日土曜日

松山と子規、漱石、そして一遍

旅の3日めの宿は、松山の道後温泉の道後館という大きな温泉旅館。温泉街から坂を上ったところにあった。


この旅館の建物は、黒川紀章が設計したもので、いわゆる、ポストモダンなメタボリックで個性的な建物。しかし、内部は、いたって普通の日本旅館だった。


夜になっても、道後温泉の温泉街は、人ごみが絶えない。飾り時計では、1時間おきに機械仕掛けが動きだし、多くの人が その様子を写真に収めていた。


翌日の朝、朝食を食べた後に、道後温泉にある正岡子規の記念館を訪ねた。

記念館は4階建てという結構な大きさで、子規のイメージとは似ても似つかないものだった。

子規は、まだ江戸時代だった慶応3年、1867年に松山藩士の子として生まれた。その後、上京し、新聞記者などを務め、俳人、歌人として、明治35年、1902年に東京で亡くなった。

記念館には、子規の生涯は勿論だが、江戸時代の栗田樗堂など子規以前の、この地に縁のある様々な俳人のことも紹介されている。

小林一茶も、この地を訪れたことがある。一茶は、松山にあった、芭蕉、其角、素堂という3人の俳句の巨匠が描いた賛を一目見るために、訪れている。

正岡子規という人物は、決して、突然変異的に松山に生まれたのではなかった。この地に流れていた、俳諧の伝統の中に生まれたのだった。


松山は、また、夏目漱石の坊ちゃんの舞台としても知られている。

夏目漱石は、子規と同じ慶応3年に江戸で生まれ、大学時代は子規と同窓だった。

明治28年に松山の愛媛県尋常中学校の英語教師として松山の地を訪れ、子規と再開し、旧交を温めた。その時の経験を、坊ちゃんという小説に記している。

しかし、漱石は、わずか1年で、熊本の第五高等学校に移動。そして、1900年ににイギリスに留学してしまう。

子規は、その2年後に亡くなってしまったが、子規の死まで、漱石との交流は続いていた。

松山時代の漱石が暮らした家は、1階は子規が俳句仲間たちと過ごし、2階に漱石が暮らしていた。漱石も、普段は1階で時間を過ごし、子規らとともに俳句をひねっていた。


子規記念館の隣は、道後公園だが、この地には、かつてこの地を収めていた河野氏の居城、湯築城があった。

河野氏は、平安時代からこの地にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代の混乱の中で勢力を失っていく。

時宗の開祖、一遍上人は、この河野氏の分家に、第2子として生まれた。母の死後、天台宗の寺に入り、父の死後に還俗して家に戻ったが、俗世間には馴染めず、結局、今日我々が知るような生涯を辿ることになる。

この道後温泉の地に生まれたことに由来するのか、一遍には、温泉を掘った、という伝説が全国に残っている。


道後温泉の温泉街の店の軒先に、ツバメの巣を見つけた。小スズメたちが、エサを運んで切る親の帰りを待っていた。

2013年9月1日日曜日

古代から続く道後温泉で旅の疲れを癒す

瀬戸内を巡る旅の3日目。

讃岐の金毘羅宮への参拝を終えて、JR琴平駅から、途中、多度津で乗り換えて、予讃線で松山に向かう。

予讃線は、瀬戸内海を右に見て、海沿いを走る。窓際の席に座り、始めはのんびりと外を眺めていたが、700段を越える石段を往復した疲れが出たのか、途中から眠りに落ちてしまった。終点の松山が近づいたことを告げるアナウンスで、ようやく目が覚めた。


JR松山駅から、京の宿、道後温泉への路面電車に乗り換える。

この日、松山は30度を超える猛暑で、路面電車の駅のマスコットのネコも、さすがにダウン。ぐったりしながらも、観光客を出迎えてくれた。


路面電車で、JR松山駅から道後温泉駅までは20分ほど。道後温泉駅の駅舎は、大正ロマンといった趣のある建物。


駅前の商店街を真っすぐに進み、右に曲がると、その突き当たりに、道後温泉のシンボルともいえる、道後温泉本館が現れた。

明治27年(1894年)に建てられ、夏目漱石も『坊ちゃん』の中で登場させている。

今も共同浴場として使われており、3種類あるコースを選んで、400円から1,500円の料金を払えば、誰でも歴史ある建物の雰囲気を味わうことができる。

最初は入ろうと思っていたが、あまりの行列の長さに断念。自分の旅館の温泉で我慢することにした。


道後温泉の歴史は古い。伝説では、この地に住んでいた人々が、怪我をした白鷺が、岩から湧き出た湯に足をひたし、怪我が治るのを見て、温泉に効用があることに気がついたという。

道後温泉本館の左手の所に、玉の石、という丸い石が置かれていた。これは、古事記にも登場する、大国主命と少彦名命が、出雲から伊予の地を訪れ、急病の少彦名命がこの地の温泉で回復した際に、喜んでこの石の上で踊った、とされる石とのこと。

聖徳太子がこの地を訪れたということが、伊予国風土記の逸文に書かれている。

また、天智天皇が白村江の戦いに向かう際に、この地に日本・百済連合軍を終結させたという。


道後温泉の温泉街には、沢山の店が建ち並び、活気があった。

今治タオルの店、砥部焼の店、伊予柑から作られたジュースやゼリーを売っている店が、特に印象的だった。

砥部焼は、白い生地に、澄みきった青空のような、あるいは瀬戸内の海のような、鮮やかな青で、味のあるシンプルな文様が描かれている。

派手さはないが、毎日使う器などが、こんなものだったら、穏やかな毎日を過ごせそうだ。

この商店街のある辺りには、かつては、温泉旅館が軒を連ねていた。観光客が増えるにつれ、手狭になり、ほとんどの旅館が、周辺に移転してしまった。

しかし、最近は、逆に観光客も減り、旅館の数も減少しているという。

これまでに、数多くの温泉地を訪れてきたが、この道後温泉は、もっとも印象が良い温泉地だった。