2013年9月23日月曜日

広島城跡を散策する

旅の4日目。午後、原爆ドーム、広島平和記念資料館を見学し、まだ少し時間があったので、広島城を訪れた。

今回の旅で、城を訪ねるのは、高松城、松山城に続いて3つ目。何とも、城と縁のある旅だ。


城への入り口になっている表御門を渡る。堀にかかる橋は、最近建て替えたようで、歩いていても、木の匂がする。それが、心地よい。


城内に、広島護国神社が建っていた。

この神社には、戊辰戦争で亡くなった広島藩士、そして、広島の原爆などで亡くなった92,000人の人々が祀られている。


広島城は、戦国時代の武将、毛利元就の孫にあたる、毛利輝元によって建てられた。

当時の広島は、まだ太田川の河口の土地にすぎなかった。毛利輝元は、豊臣秀吉が大阪の淀川沿いに築いた、壮麗な大阪城を見て大きな衝撃を受け、この地に城を建てることを決めたといわれている。

そもそも、広島、という名前も、その時に、毛利輝元によって名付けられた。

時代は、戦国時代の戦いのための山城の時代から、戦争がなくなった後の、治世のための平城の時代になっていた。

毛利輝元は、関ヶ原の戦いで西軍に属して破れ、広島城は福島正則に与えれた。その福島正則も、改築の禁を犯し、この城の当主は浅野長政の子、浅野長晟に代わった。浅野家は、そのまま幕末まで、この城の城主だった。



天守は、広島城の歴史や、広島の歴史が学べる博物館になっている。勿論、天守の一番上に登り、広島市内を一望できる。

天守の外観は、木造になっているが、内部は鉄筋コンクリート。建物の真ん中にあった階段を上りながら、天守の最上階を目指す。その手すりの鉄の冷たい触感が、外観とのギャップを感じさせた。

実は、広島の江戸時代の様子は、意外と知られていない。城下町を描いた絵図が展示されていたが、それをもとに、調査が行われているという。

毛利輝元が建て、それ以来、ずっと使われ続けていた天守は、原爆が落とされた時に、その爆風で倒壊してしまった。あるいは、自らの重みで倒れたとも言われている。

現在の天守は、1958年に再建されたもの。


天守から降り、城内をブラブラしていると、古代の遺跡のような柱の跡があった。近づいて見ると、広島大本営跡という看板が立っている。

この広島には、日清戦争が開戦された時に、大本営が置かれていた。その間、明治天皇は、7ヶ月余り、広島の地に滞在した。

その関係で、第7回の帝国議会も広島で開催され、広島は、一時臨時の首都でもあった。


ホテルからは、広島城が一望に望めた。かつては、天守が、広島では一番高い建物だったのだろう。しかし、今では、残念ながら、高さでは、目立たない存在になってしまった。

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