2013年9月7日土曜日

松山と子規、漱石、そして一遍

旅の3日めの宿は、松山の道後温泉の道後館という大きな温泉旅館。温泉街から坂を上ったところにあった。


この旅館の建物は、黒川紀章が設計したもので、いわゆる、ポストモダンなメタボリックで個性的な建物。しかし、内部は、いたって普通の日本旅館だった。


夜になっても、道後温泉の温泉街は、人ごみが絶えない。飾り時計では、1時間おきに機械仕掛けが動きだし、多くの人が その様子を写真に収めていた。


翌日の朝、朝食を食べた後に、道後温泉にある正岡子規の記念館を訪ねた。

記念館は4階建てという結構な大きさで、子規のイメージとは似ても似つかないものだった。

子規は、まだ江戸時代だった慶応3年、1867年に松山藩士の子として生まれた。その後、上京し、新聞記者などを務め、俳人、歌人として、明治35年、1902年に東京で亡くなった。

記念館には、子規の生涯は勿論だが、江戸時代の栗田樗堂など子規以前の、この地に縁のある様々な俳人のことも紹介されている。

小林一茶も、この地を訪れたことがある。一茶は、松山にあった、芭蕉、其角、素堂という3人の俳句の巨匠が描いた賛を一目見るために、訪れている。

正岡子規という人物は、決して、突然変異的に松山に生まれたのではなかった。この地に流れていた、俳諧の伝統の中に生まれたのだった。


松山は、また、夏目漱石の坊ちゃんの舞台としても知られている。

夏目漱石は、子規と同じ慶応3年に江戸で生まれ、大学時代は子規と同窓だった。

明治28年に松山の愛媛県尋常中学校の英語教師として松山の地を訪れ、子規と再開し、旧交を温めた。その時の経験を、坊ちゃんという小説に記している。

しかし、漱石は、わずか1年で、熊本の第五高等学校に移動。そして、1900年ににイギリスに留学してしまう。

子規は、その2年後に亡くなってしまったが、子規の死まで、漱石との交流は続いていた。

松山時代の漱石が暮らした家は、1階は子規が俳句仲間たちと過ごし、2階に漱石が暮らしていた。漱石も、普段は1階で時間を過ごし、子規らとともに俳句をひねっていた。


子規記念館の隣は、道後公園だが、この地には、かつてこの地を収めていた河野氏の居城、湯築城があった。

河野氏は、平安時代からこの地にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代の混乱の中で勢力を失っていく。

時宗の開祖、一遍上人は、この河野氏の分家に、第2子として生まれた。母の死後、天台宗の寺に入り、父の死後に還俗して家に戻ったが、俗世間には馴染めず、結局、今日我々が知るような生涯を辿ることになる。

この道後温泉の地に生まれたことに由来するのか、一遍には、温泉を掘った、という伝説が全国に残っている。


道後温泉の温泉街の店の軒先に、ツバメの巣を見つけた。小スズメたちが、エサを運んで切る親の帰りを待っていた。

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