2013年11月4日月曜日
旅の終わりに
かねてより、瀬戸内海を旅してみたいと思っていた。
今回の旅で、大阪の住吉大社に始まり、岡山の宇野から直島、高松へ。その後、金毘羅宮、松山、道後温泉を経て、そこから広島に渡り、最後に厳島神社を訪ねた。
勿論、そこで瀬戸内海は終わりではない。そのまま、下関まで行ってみて、初めて瀬戸内海を横断したと言えるのだろう。残りは次の旅に残して行こう。
この海は、昔から、人間にとっては、恵みの海であり、また通り道でもあった。人々は、いろいろな思いを持って、この海を渡ってきたのだろう。
そうした恵みを、この旅で十分に堪能することができた。この地域に縁のある人々の足跡を訪ね、その思いに心を馳せることができた。
現代においても、瀬戸内海は元気だ。直島などの小島には、世界中から人々が訪れている。
旅は終わったが、この地域への興味は、尽きることはない。というよりも、まだ始まったばかりだ。
一つの旅の終わりは、次の旅の始まりでもある。瀬戸内海を巡る次の旅は、いったいどんな旅になるのだろうか。
厳島神社に刻まれた歴史の記憶
海の上に浮かんだ、厳島神社の長い回廊を抜けると、まだ地上に戻り、見学ルートの終わりとなる。神秘的な神の国から、ふたたび日常の人の世界に帰ってきたような、不思議な感覚に捉われる。
参拝の回廊を抜けてすぐのところに、平清盛の長男、平重盛が自らの手で植えたといわれている松の古木がある。
平重盛は、清盛の長男ではあったが、母の身分が低く、さらに後に妻となった女性の父が、平清盛に対抗した藤原成親だったこともあり、平家の中では微妙な立場にいたといわれる。
その反面、平家物語の中では、父の平清盛の行き過ぎを諫め、統率力に優れるなど、その存在感が大きく描かれている。
重盛は、父の清盛が存命中に、病いで命を落としてしまう。もし、重盛が生きていたら、平家はあれほど早くは滅亡しなかったろうとも言われているが、実際のところは、わからない。
厳島神社のすぐ隣にある天神様の境内の中に、勝海舟と木戸孝允が階段を行った、という部屋があった。
説明板によれば、江戸時代の末期、江戸幕府が第二次長州征伐を行った際に、この部屋で幕府側の勝海舟と、長州側の木戸孝允らが会談を行い、休戦の協定をまとめたとのこと。
長州藩は、毛利元就の子孫がその頃に治めていた藩で、この厳島神社とは、不思議な縁があるようだ。
その天神様のすぐ近くに、宝物館があった。厳島神社の宝物というと、平清盛が奉納した平家納経がよく知られる。
宝物館の中は、狭く、雑然としており、あまり綺麗ではない。展示物の説明なども、かなり昔に書かれたもので、管理は行き届いてはいない印象だ。
平家納経は、貴重なもので厳重な管理が必要なせいか、さすがに本物は展示されておらず、そのコピーが一部展示されていた。
別な場所で、平家納経の本物を見る機会があったが、800年後の現在見ても、実に美しい。この宝物館も、それに相応しいものにしたほうがよい。
フェリー乗り場へは、神社の後をぐるっとまわって向かうことになる。その途上で、後白河法皇が植えた、という松の古木があった。
この後白河法皇という人物は、とても興味深い人物。平安時代の末期、貴族の時代から武士の時代に移る時代の転換期に、天皇や法皇として、勃興した武士勢力と時に協力し、時に対抗しながら、天皇家の存続を模索した。
若い頃は、今様という芸能にはまり、とても政治を行える素質はない、と周囲は思っていたという。しかし、いざしかるべき地位に就くと、源頼朝から”大天狗”といわれるのほどの政治力を発揮して、天皇家を時代の荒波から守り抜いた。
平清盛が勢力を握った際も、当初はそれに逆らわず、清盛とよい関係を築いた。1174年には、この厳島神社にも行幸している。
すでに後白河法皇は、天皇ではなかったが、それでも法皇が都を離れて、これほど遠くの地に移動するのは前代未聞のことだった。
フェリー乗り場に向かう帰り道。この日もとても暑く、多くの鹿たちが、地面にぺたりとなって、可愛い寝顔を見せていた。
鹿は神の使いとされ、厳島神社の他では、奈良の春日大社も鹿に縁の深い神社として知られている。
鹿は、日本のみならず、世界中に生息する。中国では、仙人が鹿に乗っている姿がよく描かれる。ヨーロッパでも、ギリシャ神話に鹿が登場する。
突然、観光客の前に、小さな子鹿が現れた。
多くの人が集まり、キャーキャーという歓声を上げ、カメラを子鹿に向けた。
子鹿はしばらく草などをついばんでいたが、しばらくすると、森の奥の方に合っとう間に走り去ってしまった。
宮島を離れることには、潮も満ちてきて、島に着いたときはまだ海の底が見えていた鳥居の辺りも、すっかり海の水に取り囲まれていた。
午後になると、海の上に浮かぶ厳島神社を見ることができる。
私の瀬戸内紀行も、この厳島神社で終わりを迎えた。
参拝の回廊を抜けてすぐのところに、平清盛の長男、平重盛が自らの手で植えたといわれている松の古木がある。
平重盛は、清盛の長男ではあったが、母の身分が低く、さらに後に妻となった女性の父が、平清盛に対抗した藤原成親だったこともあり、平家の中では微妙な立場にいたといわれる。
その反面、平家物語の中では、父の平清盛の行き過ぎを諫め、統率力に優れるなど、その存在感が大きく描かれている。
重盛は、父の清盛が存命中に、病いで命を落としてしまう。もし、重盛が生きていたら、平家はあれほど早くは滅亡しなかったろうとも言われているが、実際のところは、わからない。
厳島神社のすぐ隣にある天神様の境内の中に、勝海舟と木戸孝允が階段を行った、という部屋があった。
説明板によれば、江戸時代の末期、江戸幕府が第二次長州征伐を行った際に、この部屋で幕府側の勝海舟と、長州側の木戸孝允らが会談を行い、休戦の協定をまとめたとのこと。
長州藩は、毛利元就の子孫がその頃に治めていた藩で、この厳島神社とは、不思議な縁があるようだ。
その天神様のすぐ近くに、宝物館があった。厳島神社の宝物というと、平清盛が奉納した平家納経がよく知られる。
宝物館の中は、狭く、雑然としており、あまり綺麗ではない。展示物の説明なども、かなり昔に書かれたもので、管理は行き届いてはいない印象だ。
平家納経は、貴重なもので厳重な管理が必要なせいか、さすがに本物は展示されておらず、そのコピーが一部展示されていた。
別な場所で、平家納経の本物を見る機会があったが、800年後の現在見ても、実に美しい。この宝物館も、それに相応しいものにしたほうがよい。
フェリー乗り場へは、神社の後をぐるっとまわって向かうことになる。その途上で、後白河法皇が植えた、という松の古木があった。
この後白河法皇という人物は、とても興味深い人物。平安時代の末期、貴族の時代から武士の時代に移る時代の転換期に、天皇や法皇として、勃興した武士勢力と時に協力し、時に対抗しながら、天皇家の存続を模索した。
若い頃は、今様という芸能にはまり、とても政治を行える素質はない、と周囲は思っていたという。しかし、いざしかるべき地位に就くと、源頼朝から”大天狗”といわれるのほどの政治力を発揮して、天皇家を時代の荒波から守り抜いた。
平清盛が勢力を握った際も、当初はそれに逆らわず、清盛とよい関係を築いた。1174年には、この厳島神社にも行幸している。
すでに後白河法皇は、天皇ではなかったが、それでも法皇が都を離れて、これほど遠くの地に移動するのは前代未聞のことだった。
フェリー乗り場に向かう帰り道。この日もとても暑く、多くの鹿たちが、地面にぺたりとなって、可愛い寝顔を見せていた。
鹿は神の使いとされ、厳島神社の他では、奈良の春日大社も鹿に縁の深い神社として知られている。
鹿は、日本のみならず、世界中に生息する。中国では、仙人が鹿に乗っている姿がよく描かれる。ヨーロッパでも、ギリシャ神話に鹿が登場する。
突然、観光客の前に、小さな子鹿が現れた。
多くの人が集まり、キャーキャーという歓声を上げ、カメラを子鹿に向けた。
子鹿はしばらく草などをついばんでいたが、しばらくすると、森の奥の方に合っとう間に走り去ってしまった。
宮島を離れることには、潮も満ちてきて、島に着いたときはまだ海の底が見えていた鳥居の辺りも、すっかり海の水に取り囲まれていた。
午後になると、海の上に浮かぶ厳島神社を見ることができる。
私の瀬戸内紀行も、この厳島神社で終わりを迎えた。
厳島神社を作った権力者たち
厳島神社は、世界遺産に登録されている。日曜日ということもあって、沢山の人が訪れていた。
厳島神社は、古くは、伊都伎嶋神社、と別な文字で書かれていたようで、今の広島県の辺りであった安芸の国の一宮でもあった。
平安時代に末期に突如として権力を握った平清盛が、この神社を厚く信仰し、今の境内の元になっている、壮大な境内を建て、奉納した。
清盛が建てた当時の境内は、1207年、1223年の2度の火災ですべて失われてしまい、現在の境内は、その後に再建されたもの。
厳島神社の魅力の一つは、境内の構造が複雑なため、歩く度に、建物の見え方が徐々に変化していくことにある。写真好きの人にとっては、撮影ポイントがあちらこちらにあって、楽しめる。
毛利元就は、戦国時代の1555年、陶晴賢率いる大内軍の大軍をこの宮島の狭い土地に誘い込み、圧倒的な勝利を得て、中国地方の覇者となった。
大内家は、古代朝鮮の百済の聖明王の子孫であると名乗り、平安時代から周防の地の役人を務めていた。
鎌倉時代には、周防の地を支配する家となり、朝鮮半島とも交易を行っていた。聖明王の子孫と名乗ったのは、その交易の便のためだったのかもしれない。
室町時代には、有力な守護大名となり、明や朝鮮との交易で莫大な富を得た。有名な画家の雪舟は、大内氏の招きで周防の地で長く活躍し、その大内氏の強力で明の国に渡っている。
そうした大内氏が、新興の毛利氏に滅ぼされた、ということは、戦国時代を象徴する出来事だった。そこには、平安貴族の時代の終わりをもたらした、平清盛の姿に重なるものがある。
元就は、その勝利にはこの厳島神社の力が大きく働いていたと考え、その後、この神社を深く信仰するようになった。現在の本殿は、1571年に毛利元就によって改築されたものである。
この厳島神社は、そうした時代の変化をもたらした権力者によって支えられてきたという、不思議な由縁を持っている。
本殿の右側、参拝路の最後の方に、能舞台がある。この時は、潮がまだ来ていないが、潮が満ちると、この舞台は、日本で唯一、海の上に浮かぶ能楽堂になる。
現在の能舞台は、江戸時代に安芸の国の藩主であった浅野氏が1680年に建てたもの。それ以前には、その前の藩主だった福島正則が建てた能舞台があった。
本殿の後から、海の上に建てられた鳥居が見える。この神社は、この海の上で繰り広げられた、様々な歴史絵巻を、ずっと見続けてきたのだろう。
厳島神社は、古くは、伊都伎嶋神社、と別な文字で書かれていたようで、今の広島県の辺りであった安芸の国の一宮でもあった。
平安時代に末期に突如として権力を握った平清盛が、この神社を厚く信仰し、今の境内の元になっている、壮大な境内を建て、奉納した。
清盛が建てた当時の境内は、1207年、1223年の2度の火災ですべて失われてしまい、現在の境内は、その後に再建されたもの。
厳島神社の魅力の一つは、境内の構造が複雑なため、歩く度に、建物の見え方が徐々に変化していくことにある。写真好きの人にとっては、撮影ポイントがあちらこちらにあって、楽しめる。
この日は、お日柄もよく、結婚式が行われていた。多くの観光客が、その結婚式を見物していた。
厳島神社は、宗像三女神という3人の女神を祀っている。この宗像三女神は、総本社の福岡の宗像神社で、海の神、船の航行の神として祀られている。
厳島神社の名前は、その宗像三女神の3番目の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)からとられている。
厳島神社は、宗像三女神という3人の女神を祀っている。この宗像三女神は、総本社の福岡の宗像神社で、海の神、船の航行の神として祀られている。
厳島神社の名前は、その宗像三女神の3番目の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)からとられている。
毛利元就は、戦国時代の1555年、陶晴賢率いる大内軍の大軍をこの宮島の狭い土地に誘い込み、圧倒的な勝利を得て、中国地方の覇者となった。
大内家は、古代朝鮮の百済の聖明王の子孫であると名乗り、平安時代から周防の地の役人を務めていた。
鎌倉時代には、周防の地を支配する家となり、朝鮮半島とも交易を行っていた。聖明王の子孫と名乗ったのは、その交易の便のためだったのかもしれない。
室町時代には、有力な守護大名となり、明や朝鮮との交易で莫大な富を得た。有名な画家の雪舟は、大内氏の招きで周防の地で長く活躍し、その大内氏の強力で明の国に渡っている。
そうした大内氏が、新興の毛利氏に滅ぼされた、ということは、戦国時代を象徴する出来事だった。そこには、平安貴族の時代の終わりをもたらした、平清盛の姿に重なるものがある。
元就は、その勝利にはこの厳島神社の力が大きく働いていたと考え、その後、この神社を深く信仰するようになった。現在の本殿は、1571年に毛利元就によって改築されたものである。
この厳島神社は、そうした時代の変化をもたらした権力者によって支えられてきたという、不思議な由縁を持っている。
本殿の右側、参拝路の最後の方に、能舞台がある。この時は、潮がまだ来ていないが、潮が満ちると、この舞台は、日本で唯一、海の上に浮かぶ能楽堂になる。
現在の能舞台は、江戸時代に安芸の国の藩主であった浅野氏が1680年に建てたもの。それ以前には、その前の藩主だった福島正則が建てた能舞台があった。
本殿の後から、海の上に建てられた鳥居が見える。この神社は、この海の上で繰り広げられた、様々な歴史絵巻を、ずっと見続けてきたのだろう。
厳島神社へ向かう
いよいよ、瀬戸内海を巡る旅も最後の5日目となった。
旅の最後は、朝から、世界遺産でもある厳島神社に向かった。
厳島神社のある宮島は、完全に独立した島になっており、本州側からフェリーに乗っていく。
フェリーは、JR系のものと松大汽船の2社がある。JR系のフェリーは、広島からのJRの切符に代金が含まれているため、ほとんどの人は、JR系のフェリーで向かっているようだ。
フェリーで島に向かう途中、所々に、牡蠣の養殖の施設が見えた。島のあちこちで、こうした牡蠣を焼いて売っているのを見かけた。
フェリーを降りて、厳島神社に向かう。神社に向かう観光客を鹿が出迎える。すっかり人になれているようで、後から近づいて、エサをねだっている。
鹿と言えば、奈良公園にも鹿がいる。奈良公園の鹿は、かなり強引に人にエサをねだることで知られている。エサでなくても、人が持っている紙やガイドブックを食べようとしたりする。
この厳島神社の鹿は、そこまでお行儀は悪くないようで、人にエサをねだるにも、そのまでの強引さはない。
フェリーを降りてから、右手に海を見ながら参道を進む。15分ほど歩くと、厳島神社の入り口に到着した。
旅の最後は、朝から、世界遺産でもある厳島神社に向かった。
厳島神社のある宮島は、完全に独立した島になっており、本州側からフェリーに乗っていく。
フェリーは、JR系のものと松大汽船の2社がある。JR系のフェリーは、広島からのJRの切符に代金が含まれているため、ほとんどの人は、JR系のフェリーで向かっているようだ。
次第に、厳島神社の赤い鳥居が見えてくる。その背景にある弥山の緑と、赤の対比が美しい。
フェリーに乗っている多くの人が、鳥居の見える側のデッキに上がり、島をバックに、記念写真などを撮影していた。
厳島神社のある宮島は、古くから神が住む島として、人々の信仰を集めていた。
標高535メートルの弥山は、空海が開山したという伝説がある。これは事実とは違うようだが、山麓からは、古墳時代の石器が見つかっており、この山を神として祀っていた跡といわれている。
朝10時くらいだったので、ちょうど、潮が満ちてくる時間で、鳥居の近くまで近寄っていや人々が、海の水に急かされて、岸に戻る様子が見えた。
フェリーで島に向かう途中、所々に、牡蠣の養殖の施設が見えた。島のあちこちで、こうした牡蠣を焼いて売っているのを見かけた。
フェリーを降りて、厳島神社に向かう。神社に向かう観光客を鹿が出迎える。すっかり人になれているようで、後から近づいて、エサをねだっている。
鹿と言えば、奈良公園にも鹿がいる。奈良公園の鹿は、かなり強引に人にエサをねだることで知られている。エサでなくても、人が持っている紙やガイドブックを食べようとしたりする。
この厳島神社の鹿は、そこまでお行儀は悪くないようで、人にエサをねだるにも、そのまでの強引さはない。
フェリーを降りてから、右手に海を見ながら参道を進む。15分ほど歩くと、厳島神社の入り口に到着した。
2013年9月23日月曜日
広島といえばお好み焼きに尾道ラーメン
旅の4日目の宿は、広島のリーガロイヤルホテル。広島県庁の向かいにあり、ショッピングモールの一角に入っており、便利な場所だった。
その日の夜は、そのモールにあったお好み焼き屋へ。広島に来たら、やはりお好み焼きは外せない。
目の間の鉄板で焼いてくれて、そのまま席の前まで持ってきてくれる。このパターンが好きだ。
お好み焼きは、千利休が作った麩の焼きがその起源といわれている。江戸時代から明治時代にかけて、様々に進化したが、関東大震災以降、食料不足を補う意味で、非常にポピュラーになったという。
広島では、終戦後に、今のキャベツ、もやし、そばなどを入れる形が定着した。お好み焼きは、常に、庶民とともにある食べ物だったのだ。
外国からの観光客と思しき二人連れも、楽しそうにお好み焼きをほおばっている。
翌日、もう一つの広島名物を求めて、市電で広島駅へ。
広島市内の道路は、ほとんどが綺麗に舗装されているが、この市電の線路周辺は、赤色のレンガのようなものが敷き詰められている。
各駅は、道の真ん中に作られているので、乗り場は、人が行き交うのがやっとくらいの広さしかない。イスがない代わりに、寄りかかることができる、太いパイプのようなものが設置してある。
広島駅に併設したビルの2階にあったラーメン屋へ。広島カープの選手もよく訪れるようで、店の入り口には、選手のサイン入りのユニフォームやジャケットが、立派な額縁に入れて飾ってあった。
カウンターに座り、尾道ラーメンを注文。勿論、メニューには、”尾道ラーメン”などとは書いていないが。
味は、魚ベースのあっさり醤油味。ふつうに、おいしい。
店内を見回すと、張り紙が。この店は、普段は9時くらいには閉めてしまうようだが、広島カープが勝ったときは、夜11時過ぎまで開けているとのこと。さすが、広島。
広島城跡を散策する
旅の4日目。午後、原爆ドーム、広島平和記念資料館を見学し、まだ少し時間があったので、広島城を訪れた。
今回の旅で、城を訪ねるのは、高松城、松山城に続いて3つ目。何とも、城と縁のある旅だ。
城への入り口になっている表御門を渡る。堀にかかる橋は、最近建て替えたようで、歩いていても、木の匂がする。それが、心地よい。
城内に、広島護国神社が建っていた。
この神社には、戊辰戦争で亡くなった広島藩士、そして、広島の原爆などで亡くなった92,000人の人々が祀られている。
広島城は、戦国時代の武将、毛利元就の孫にあたる、毛利輝元によって建てられた。
当時の広島は、まだ太田川の河口の土地にすぎなかった。毛利輝元は、豊臣秀吉が大阪の淀川沿いに築いた、壮麗な大阪城を見て大きな衝撃を受け、この地に城を建てることを決めたといわれている。
そもそも、広島、という名前も、その時に、毛利輝元によって名付けられた。
時代は、戦国時代の戦いのための山城の時代から、戦争がなくなった後の、治世のための平城の時代になっていた。
毛利輝元は、関ヶ原の戦いで西軍に属して破れ、広島城は福島正則に与えれた。その福島正則も、改築の禁を犯し、この城の当主は浅野長政の子、浅野長晟に代わった。浅野家は、そのまま幕末まで、この城の城主だった。
天守は、広島城の歴史や、広島の歴史が学べる博物館になっている。勿論、天守の一番上に登り、広島市内を一望できる。
天守の外観は、木造になっているが、内部は鉄筋コンクリート。建物の真ん中にあった階段を上りながら、天守の最上階を目指す。その手すりの鉄の冷たい触感が、外観とのギャップを感じさせた。
実は、広島の江戸時代の様子は、意外と知られていない。城下町を描いた絵図が展示されていたが、それをもとに、調査が行われているという。
毛利輝元が建て、それ以来、ずっと使われ続けていた天守は、原爆が落とされた時に、その爆風で倒壊してしまった。あるいは、自らの重みで倒れたとも言われている。
現在の天守は、1958年に再建されたもの。
天守から降り、城内をブラブラしていると、古代の遺跡のような柱の跡があった。近づいて見ると、広島大本営跡という看板が立っている。
この広島には、日清戦争が開戦された時に、大本営が置かれていた。その間、明治天皇は、7ヶ月余り、広島の地に滞在した。
その関係で、第7回の帝国議会も広島で開催され、広島は、一時臨時の首都でもあった。
ホテルからは、広島城が一望に望めた。かつては、天守が、広島では一番高い建物だったのだろう。しかし、今では、残念ながら、高さでは、目立たない存在になってしまった。
2013年9月16日月曜日
広島の原爆ドームと広島平和記念資料館にて
広島には、昔から一度は訪れたいと願いながら、これまでその機会がなかった、特別な場所があった。
それは、広島の原爆ドームと広島平和記念資料館。
今回の旅の中で、ようやく、その場所を訪れることができた。
原爆ドームは、ちょうど補強工事を行っていた。原爆が投下されてから、すでに68年。原爆の影響を象徴するこの建物も、老朽化が進んでいる。
しかし、この建物は、これからも残していかなければならない、大切な遺産だ。
建物の近くに寄ると、内部の様子もよくわかる。原爆が落とされたときの、凄まじい高温と爆風に絶えた建物だけに、実に堅牢に設計され、建てられたことが伺える。
1945年8月6日午前8時15分。人類の科学技術の進歩の成果でもあったその爆弾は、広島の爆心地の上空600メートルで炸裂。その炸裂時に中心の温度は100万度を超えていた。
爆心地の周辺は、ほぼ同時に3000〜4000度の熱に包まれた。その瞬間にその地域にいた人々は、文字通り一瞬の内に、何も残さずに、骨まで燃え尽きてしまった。
この爆弾の実験は、何度も、念密に行われ、この爆弾を使用した人々は、この爆弾が爆発した際に、どのようなことが起こるかを正確に理解していた。
この場合、アメリカとか日本とか、そうした些細なことには、何の意味もないだろう。
人間とは一体どんな生き物であるのか、ともし問われたら、この1つの爆弾に関する物語を語ることで、その答えになるのではないか。
原爆が広島に落とされた時、広島には、およそ35万人の人がいたといわれている。同じ年の12月末までに、そのうち、14万人が死亡したという。
そうした人々に、私は合掌することしかできない。
人間という生き物には、わずかながらの学習機能があるようで、幸いなことに、広島・長崎以降、原子爆弾を受けた都市はない。
これからもそうであるという保証は何もない。むしろ、その可能性は、より高まっているのかもしれない。
それは、広島の原爆ドームと広島平和記念資料館。
今回の旅の中で、ようやく、その場所を訪れることができた。
原爆ドームは、ちょうど補強工事を行っていた。原爆が投下されてから、すでに68年。原爆の影響を象徴するこの建物も、老朽化が進んでいる。
しかし、この建物は、これからも残していかなければならない、大切な遺産だ。
建物の近くに寄ると、内部の様子もよくわかる。原爆が落とされたときの、凄まじい高温と爆風に絶えた建物だけに、実に堅牢に設計され、建てられたことが伺える。
原爆ドームを後にして、元安川にかかる橋を渡ると、広島平和記念公園に入る。
この日、朝は晴れていたが、突然に黒い雲が広がり、雨粒が落ちてきた。
この公園のある土地は、もともとは人々が暮らす住宅地だったが、原爆によって焼け野原になってしまった。
その跡地が、1954年4月1日に広島平和記念公園として開演した。公園全体の設計は、コンペにより選ばれた丹下健三が担当している。
平和の記念碑であると同時に、そのシンプルでかつ厳かな佇まいは、日本の現代建築の大きな成果でもある。
公園の中に、広島平和記念資料館がある。入場料はわずか50円。勿論、営利目的の施設ではない。原爆とはどんなものか、それによって、広島という町が、どのようになってしまったのか、を一人でも多くの人々に見て欲しい、というのが、その50円という金額の意味である。
その趣旨は、多くの人々の心に伝わっているようで、館内は、実に多くの人でごった返していた。
1945年8月6日午前8時15分。人類の科学技術の進歩の成果でもあったその爆弾は、広島の爆心地の上空600メートルで炸裂。その炸裂時に中心の温度は100万度を超えていた。
爆心地の周辺は、ほぼ同時に3000〜4000度の熱に包まれた。その瞬間にその地域にいた人々は、文字通り一瞬の内に、何も残さずに、骨まで燃え尽きてしまった。
この爆弾の実験は、何度も、念密に行われ、この爆弾を使用した人々は、この爆弾が爆発した際に、どのようなことが起こるかを正確に理解していた。
この場合、アメリカとか日本とか、そうした些細なことには、何の意味もないだろう。
人間とは一体どんな生き物であるのか、ともし問われたら、この1つの爆弾に関する物語を語ることで、その答えになるのではないか。
原爆が広島に落とされた時、広島には、およそ35万人の人がいたといわれている。同じ年の12月末までに、そのうち、14万人が死亡したという。
そうした人々に、私は合掌することしかできない。
人間という生き物には、わずかながらの学習機能があるようで、幸いなことに、広島・長崎以降、原子爆弾を受けた都市はない。
これからもそうであるという保証は何もない。むしろ、その可能性は、より高まっているのかもしれない。
2013年9月14日土曜日
松山港から広島港への海の旅
旅の4日目は、午後、松山観光港から高速フェリーで広島に渡った。2日目の、直島を経由した宇野港から高松港への移動に続き、この旅で2回目の船の旅。
松山駅前から港まではリムジンバスが運行しており、30分ほどで港に到着する。
港のターミナルビルは、こじんまりとはしているが、新しくガラスが多く使われた美しい建物だった。
松山観光港から広島港までは、スーパージェットとよばれる高速フェリーで、およそ1時間ほど。途中、呉港に寄る。
この日は日曜日だったが、さすがにフェリーで移動する人は少ないようで、船内に人影はまばら。そのおかげで、ゆったりとした船旅が楽しめた。
熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
かつて、額田女王がこの歌を詠んだという、熟田津の正確な場所は特定されていないが、この松山周辺の港だったという。
大和朝廷の斉明天皇率いる軍勢が、唐と新羅の連合軍と戦った白村江の戦いに向かうために、一時、この辺りに立ち寄ったという。上の歌は、その際に詠まれたものだ。
その時、斉明天皇一行は、松山の道後温泉に立ち寄った、と伊予国風土記の断片は伝えている。
時代が下り、夏目漱石が、松山の中学校に赴任するために降り立ったのは、松山観光港より少し南にある三津浜港だった。
いずれにしろ、このあたりには、多くの港があり、海からそれほど遠くない所に道後温泉もある、といったよい環境で、古くから、人々が暮らしやすい土地だったのだろう。
呉港に近づくと、音戸の瀬戸というところで、本州と倉橋島の狭い海峡の間を抜けていく。2本の橋が架かっているが、泳いで渡れそうな距離だ。
この海峡は、平清盛が、わずか一日で開削した、という伝説が残っている。
このすぐ向こう側にある、呉港への出入りには確かに便利だ。この海峡がないと、瀬戸内海に出るには、広島の方を迂回しなければならない。
音戸の瀬戸を抜けると、呉港が近づきコンビナートのようなものが見えてきた。
この地は、戦国時代は、村上水軍の本拠地であり、明治以降は日本最大の軍港となった。戦艦大和が建造された場所としても知られる。第2次大戦時には、40万人の人が暮らし、日本で10番目の大きい都市であった。現在も、海上自衛隊の呉地方隊が置かれている。
松山観光港かたいっしょに乗り込んだフェリーの乗客の中に、角刈りで大柄の数人の集団がいた。始めはよくわからなかったが、大挙してこの呉港で下船していった。彼らは自衛隊員だったのだ。
皆、大きなスポーツバッグを担いでいた。どこかで休暇を過ごしていたのか、あるいは、単なる移動だったのか。
呉港を出ると、すぐに広島港についた。
2013年9月8日日曜日
松山城からみた景色
瀬戸内を巡る旅の4日目。午前中、松山城を訪れた。
道後温泉から、路面電車で松山城の近くで降り、ロープウェー乗り場へ。松山城は、勝山という標高120メートルほどの小高い山の上に建っている。
豊臣秀吉の子飼の武将、加藤嘉明が、この地に封じられた際に、この城を築いた。現在の天守は、江戸時代の末に建てられたが、江戸時代以前に建てられた天守で現存するのは、全国でわずか12しかないという。
加藤嘉明は、その後、会津の蒲生氏が去った後の会津に移動となり、代わって藩主となった松平氏が、幕末までこの城の主となった。
天守の最上階からは、松山市内が一望に見渡せる。
正岡子規は、この城下町をテーマに、いくつかの俳句を残している。日清戦争の従軍記者を務め、その激務から大量の吐血を起こし、明治28年に松山に療養で戻った際に詠んだのが次の句。
春や昔十五万国の城下かな
この昔という言葉には、一般的な歴史の時間の流れと、自分の人生の流れと、その二つの時間の流れの中での意味が、含まれているように思える。
遠くに、松山港と瀬戸内海が望める。午後は、その松山港から広島を目指す。
城内にあった桜の木。水墨画の絵の中で、よく描かれているように、直角に曲がった枝が印象的だった。
この日は、とにかく暑かった!天守近くにあった売店で、伊予柑ソフトクリームに飛びつく。伊予柑の果実も少しついいて、美味しかったなあ。
天守に向かうまでに、いくつもの門を通っていく。その度に、あたらしい建物や景色が現れて、見学者を飽きさせない。
この城が最初に建てられたのは、江戸時代以前で、当然のことながら、そうした構造は、この城を攻めようとする敵を混乱させるために、このような複雑な建築となったのだろう。
現代の平和な時代にあっては、まるで迷路のように感じられ、観光にはうってつけの場所になっている。2009年にはミシュランガイドで二つ星に選定された。
2013年9月7日土曜日
松山と子規、漱石、そして一遍
旅の3日めの宿は、松山の道後温泉の道後館という大きな温泉旅館。温泉街から坂を上ったところにあった。
この旅館の建物は、黒川紀章が設計したもので、いわゆる、ポストモダンなメタボリックで個性的な建物。しかし、内部は、いたって普通の日本旅館だった。
翌日の朝、朝食を食べた後に、道後温泉にある正岡子規の記念館を訪ねた。
記念館は4階建てという結構な大きさで、子規のイメージとは似ても似つかないものだった。
子規は、まだ江戸時代だった慶応3年、1867年に松山藩士の子として生まれた。その後、上京し、新聞記者などを務め、俳人、歌人として、明治35年、1902年に東京で亡くなった。
記念館には、子規の生涯は勿論だが、江戸時代の栗田樗堂など子規以前の、この地に縁のある様々な俳人のことも紹介されている。
小林一茶も、この地を訪れたことがある。一茶は、松山にあった、芭蕉、其角、素堂という3人の俳句の巨匠が描いた賛を一目見るために、訪れている。
正岡子規という人物は、決して、突然変異的に松山に生まれたのではなかった。この地に流れていた、俳諧の伝統の中に生まれたのだった。
松山は、また、夏目漱石の坊ちゃんの舞台としても知られている。
夏目漱石は、子規と同じ慶応3年に江戸で生まれ、大学時代は子規と同窓だった。
明治28年に松山の愛媛県尋常中学校の英語教師として松山の地を訪れ、子規と再開し、旧交を温めた。その時の経験を、坊ちゃんという小説に記している。
しかし、漱石は、わずか1年で、熊本の第五高等学校に移動。そして、1900年ににイギリスに留学してしまう。
子規は、その2年後に亡くなってしまったが、子規の死まで、漱石との交流は続いていた。
松山時代の漱石が暮らした家は、1階は子規が俳句仲間たちと過ごし、2階に漱石が暮らしていた。漱石も、普段は1階で時間を過ごし、子規らとともに俳句をひねっていた。
子規記念館の隣は、道後公園だが、この地には、かつてこの地を収めていた河野氏の居城、湯築城があった。
河野氏は、平安時代からこの地にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて最盛期を迎えたが、戦国時代の混乱の中で勢力を失っていく。
時宗の開祖、一遍上人は、この河野氏の分家に、第2子として生まれた。母の死後、天台宗の寺に入り、父の死後に還俗して家に戻ったが、俗世間には馴染めず、結局、今日我々が知るような生涯を辿ることになる。
この道後温泉の地に生まれたことに由来するのか、一遍には、温泉を掘った、という伝説が全国に残っている。
道後温泉の温泉街の店の軒先に、ツバメの巣を見つけた。小スズメたちが、エサを運んで切る親の帰りを待っていた。
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