2013年8月31日土曜日

空海の面影とともに金比羅宮から松山へ

金毘羅宮への参拝を終え、もときた785段の石段を下りる。

さすがに小腹が減ったので、参道の入り口にあった、古そうな讃岐うどんの店に入った。


とらや、という名のこの店は、創業300百年、江戸時代からあり、元は旅館だったが、参拝者の要望で、うどん屋をはじめたらしい。


店内の雰囲気も古めかしくて、とてもいい。

うどんは、こしのある、これぞ讃岐うどんという感じだった。

記録残っている讃岐うどんの店は、江戸時代の金毘羅宮の祭を描いた屏風に描かれている、参道のうどんやだったという。もしかしたら、この店もそこに描かれているのかもしれない。

讃岐うどんが他県に知られるようになったのは、以外にも、1970年以降というごく最近だった。その後は、うどんといえば、讃岐、というくらいに有名になった。


高松からは、ことでんで琴平まできたが、今度は、松山に向かうため、JRの琴平駅を利用した。ホームの屋根を見ると、金毘羅宮にかけて、丸金の文字があった。


琴平駅から、多度津に出て、そこで乗り換えて、松山を目指す。

途中、空海の生まれ故郷といわれる善通寺を通った。できれば、善通寺駅で下車し、善通寺も参拝したかったが、炎天下の金毘羅宮参拝でへとへとだったのと、時間の関係から、残念ながら参拝は断念した。

空海は、佐伯氏という、この地を収めていた郡司の家に生まれ、その後平城京の大学に進んだ後、遣唐使で唐に渡るまでは、四国などの山野で、修行を重ねていた。

その修行で身につけた不思議な力は、やがて唐で出会った密教によって体系化されることになる。日本に戻った後の活躍は、広く知られている。

佐伯氏は、蝦夷征服の際に連れてこられた、蝦夷の一族だという言い伝えが残っている。真実は定かではないが、空海の、古代の蝦夷の人々の血が流れていた、と考えると、実に興味深い。

四国八十八ヶ所巡りは、空海の修行を追体験する旅でもある。四国のそこかしこには、空海の面影がまだ残っている。


多度津で電車を乗り換え、松山に向かう途中、瀬戸内海に突き出た神社を見つけた。

津島神社という名前のその神社は、毎年8月上旬の2日間に夏の大祭が開かれ、入り口にある津島の宮駅は、1年にその2日だけ営業を行う。

2013年8月25日日曜日

金比羅宮の至宝を堪能する

金比羅宮の本宮の辺りは、大きな広場のようになっている。

本宮の先には、さらに石段を600ほど上がっていく、奥社への道が続いている。さすがに、これ以上はギブアップした。


展望台から眺める景色は、まさしく絶景。長い石段を登り切った、という達成感が、その景色の美しさを、さらに引き立てる。

上の写真の左手中央辺りに見える、富士山のような山は、讃岐富士といわれる飯野山。高さは400メートルほどで、登山者が多く訪れる。

この日はハッキリとは見えなかったが、瀬戸大橋まで見えるという。


イヌの小さなお守りがついた、幸福の黄色いお守り。立派な箱付きで、1500円。記念に1つ購入した。


お参りを終えて、帰りの石段を下る。これは、旭社の隣にあった、竜が彫刻された灯籠。


金比羅宮の表書院には、江戸時代の有名な絵師、円山応挙が描いた襖絵があり、500円を払えば見学できる。

内部は冷房は効いていなかったが、入り口で団扇を貸してくれた。

円山応挙は、鶴の間、虎の間、七賢の間、上段の間、山水の間、という6つのセットの襖絵を描いている。

とりわけ有名なのは虎の絵。下を出して水を飲む虎が描かれており、虎は、怖いというよりは、微笑ましく描かれている。

三井家が金を出し、応挙は京都でこの絵を描き、完成後に、この地に運ばれてきたという。

奥書院には、伊藤若冲が描いた、百歌図、がある。しかし、残念ながら、その奥書院は公開されていない。


あまりの暑さに、宮内には、大きな氷が置かれていた。


桜馬場の途中の道を外れた場所に、宝物館が建っている。

空海が彫ったといわれる十一面観音立像、狩野探幽らが描いた三十六歌仙額、雪舟作と伝わる大黒天像、富岡鉄斎の扇図など、錚々たる名品が展示されていた。

こちらも、内部には冷房はなし。入り口で団扇を借りて、扇ぎながら、館内を回った。

金比羅宮参り いよいよ本宮へ

巨大な旭社から、右手に進むと立派な門が見えてくる。これは、賢木門といい、戦国時代に四国を統一した長宗我部元親が奉納したといわれている。


長宗我部元親は、四国の統一の戦乱の中で、多くの神社仏閣を破壊した。ある時、この金比羅宮周辺に進出した際に、その森が、まるで平氏の軍勢のように見え、大きなショックを受ける。

老臣に尋ねると、それは、金比羅様が、神域を侵した元親に警告したのだという。元親は、自らの行動を悔い改め、この門を奉納したという。

その際に、あまりに慌ててこの門を作ったので、木を逆さまに組んでしまい、そのためこの門は逆木(さかぎ)門と呼ばれた。後に、字を改め、現在の賢木門となった。

森が敵軍に見えるという話は、シェークスピアのマクベスにも登場する。奇しくも、マクベスが書かれたは、1602年頃と言われ、元親の生きた時代と同じで、不思議な偶然だ。


その賢木門をくぐりしばらく行くと、右手に社があった。これは遥拝所と呼ばれ、ここから、伊勢神宮や、各地の天皇陵を拝むのだという。


さらにしばらく進むと、うっそうとした森が見えてくる。この日はとても暑かったが、このあたりは、涼しく感じる。

本宮にいよいよ近づいていることが、その神聖な雰囲気からも感じられる。素晴しい演出だ。


本宮に続く最後の石段。この石段の上に、本宮がある。


本宮に続く石段の上の方に、百度石が置かれていた。本宮への百度巡りを行い際は、ここと本宮の間を行き来するのだろう。

百度石の一番上の所には、そろばんのようなものがある。一度、お参りする度に、その板を右あるいは左に移動させ、数を覚えておくのだろう。

百度石は、亀の甲らの上にあるが、金比羅宮のある辺りは、かつて亀頭山と呼ばれており、その名残かもしれない。



ようやく、785段の長い石段を登り切った!この達成感は、何とも言えない。

石段を上がったすぐ目の前に、金比羅宮の本宮が、疲れ切った参拝者を迎る。

この金比羅宮の本宮の祭神は、大物主神と崇徳天皇。

大物主神は、神話の中で、波間から現れる神として描かれている。そのためか、金比羅宮は、昔から、安全な船の航行の守り神として、瀬戸内周辺の人々の厚い信仰を集めていた。

もう一方の崇徳天皇は、保元の乱で、敗軍についてこの地に流された悲劇の天皇。都に戻ることを夢見ながら、それが許されず、この地で命を落とした。

その死にあたり、自ら腹を切り、その内臓を天井に投げつけ、魔界の王となって天皇家を呪ってやると叫んで、昇天したと言われている。

2013年8月24日土曜日

金比羅宮参り 桜馬場から旭社へ

平坦な桜馬場の最後に、大きな鳥居が表れた。


この鳥居は、桜馬場西詰銅鳥居といい、この周囲には、広場があり、一休みできるようになっている。


神様が乗るといわれる、2匹の神馬がいて、多くの人がカメラに収めていた。


桜馬場西詰銅鳥居の先からは、まだ急な石段が再開する。この石段を登り切った右手には、円山応挙の襖絵がある書院がある。

その書院は、帰りに立ち寄ることとして、まずは本宮を目指し、左手に進む。


そして、これまでで一番急ではないかと思われる石段が、目に前に立ちはだかる。

改めて、こうして写真で見ると、それほど急には見えない。しかし、すでに疲れがピークに達しようとしているこの時は、この石段が、まるで垂直に近いように見えた。


旭宮に向かう石段の途中に、祓戸社。文字通り、お祓いを行う神様が祭られており、ここので、本宮に向かうために、お祓いをする、という意味があるのかもしれない。


長い石段を上がり切ると、巨大な建物が見えてくる。これが、本宮か?とおもいきや、まだまだ。

これは、旭社といって、祭神には、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大御神・天津神・国津神・八百万神という錚々たる名前が並ぶ。


建物は、天保8年(1837年)に建てられたもので、そうした多くの神々を祀るに相応しい、壮麗な建築物になっている。

長い長い金比羅宮の石段もまずは一歩から

旅の3日目。ことでんで、高松築港駅からおよそ1時間、ことでん琴平駅に到着。

駅からは、10分くらいで金比羅宮の入り口に着いた。


参道の両脇には、讃岐うどんの店、お土産物を売る店、アイスクリームを売る店など、沢山の店が並んでいる。

そこを少し歩くと、本宮まで続く長い785段の石段の最初の石段が表れた。いよいよ、ここから参拝が始まる。


しばらくいくと、いきなり急な石段が表れた。その左側に、なにやら古そうな建物が。

これは、重要有形民俗文化財になっている灯明堂というもので、安政5年(1853年)に備後国の因之島の人々によって、船の下梁を利用して建てられたという。

金比羅宮は、海の航行の安全を守る神様だったので、そうした人々からの寄進が多かった。


急な石段を上がると、大門が見えてきた。この門は、金比羅宮の神域への入り口を意味する。


その大門のすぐ下に、宝永7年(1710年)に作られた鼓楼が建っている。この鼓楼を建てた時、一つの塚が発見された。その塚は、清少納言の塚と考えられ、それを表す石碑が建てられた。

清少納言は、晩年に四国に渡り老後の生活を送ったといわれ、その際に、この金比羅宮に参拝したという言い伝えが残っている。


大門をくぐると、5つの白い大きな笠が目に入ってきた。よくみると、お菓子のようなものを売っている。

これは、五人百姓といい、金比羅宮の中で飴を得ることを、特別に許されているという。

日本中世史の網野善彦が、百姓はかならずしも、農民を表しているのではない、と言っていたことが思い浮かぶ。


大門の先しばらくは、石段はなく、平坦な道が続き、思わずほっとする。

ここは、桜馬場といい、文字通り、両脇に沢山の桜の樹が並んでいる。真夏だったので、その緑が参拝者の疲れた心に安らぎを与える。

2013年8月18日日曜日

ことでんで琴平さまに向かう

旅の3日目。金比羅宮に参拝するために、高松からことでんで琴平に向かった。


ことでんは、昭和18年にこの地方の3つの電鉄が合併してできた電車で、およそ100年にわたり、高松を中心に運営されている。


ことでんの始発、高松築港駅は、高松城に隣接している。城内からは、ことでんのホームが見える。


駅のホームは、城壁の間近にある。こうした駅も珍しい。この日は34度という暑い日だったが、城壁の石は、日陰ということもあり、触ると冷たく感じられた。


電車を待っている間に、城の堀にいる魚を眺める。よく見ると、定番の鯉ではない。高松城は海に面して建っているので、堀の水は海から引いている。堀にいる魚も海の魚で、鯉は見られない。こちらも珍しい。


高松築港駅から、終点の琴電琴平駅までは、およそ1時間。高松市内を抜けると、のどかな田園地帯を、電車はのんびりと進んでいく。

途中の駅のベンチには、ほとんどの駅で、座布団が置かれていた。


終点の琴電琴平駅では、ことでんのキャラクター、ことちゃんとことみちゃんが、参拝者を出迎えてくれる。

ことちゃんは、2013年のご当地キャラ総選挙で、3位に輝いたという。確かに、かわいい。讃岐うどんを食べているのが、また微笑ましい。

2013年8月17日土曜日

高松にて瀬戸内海の幸を食す

時間が前後するが、旅の2日目の夜は、高松の中央商店街に繰り出した。


この商店街は、アーケードの長さが2.7Kmにおよび、日本一長いアーケードということで、中央付近にある丸天井には、しばらく上を見上げてしまう。


アーケードは、デザイン感覚に溢れた、モダンな柱で支えられている。

何の予定も無く、商店街をぶらぶらして、味の樹、という雰囲気のある、小料理屋ののれんをくぐった。


この店は、瀬戸内海で穫れた魚をメインに出しているという。この店は大当たりだった。

最初に頼んだのは、カワハギのお造り。真ん中には、肝も盛られていた。カワハギの肝ははじめて食べたが、以外とあっさりとした、淡白な味だった。


続いては、オコゼのお造り。オコゼの尾頭付き。オコゼは生命力が強く、こちらが食べているときも、まだ口をパクパクさせていた。ごめんよ、オコゼちゃん!

オコゼのお造りは、コリコリしていて、その歯ごたえが心地よい。


メインは、アワビのバター焼き。これは美味しかった!

文字通り、潮の香りがして、口当たりは、アワビながら、実に柔らかい。こんなに柔らかいアワビを食べたのは、生まれて初めてで、軽い感動すら覚えた。

瀬戸内海では、こうしたカワハギ、オコゼ、アワビなどの他、500種類ほどの海産物が穫れるという。かつては、コクジラ、セミクジラなどの小型のクジラの一大生息地だった。

瀬戸内海は、潮の干満差が大きく、そのため、潮流の流れが早い。これが、海の底の方に住む多くのプランクトンを、上方に押上げ、それが多くの生き物のエサになっている。

これからも、ずっと、そうした豊かな海の幸をもたらす、今のままの瀬戸内海であって欲しいと、おいしい料理をいただきながら、心から願わずにはいられなかった。

高松城を散歩しながら平賀源内について思う

旅の3日目は、午前中、高松城を散歩。

高松の宿、JRホテルクレメント高松からは、高松城がまるごと見えた。この左側の道は海沿いで、この城が海沿いに建てられていることがよくわかる。


まだ朝が早かったこともあって、お城の中は人影はまばらだった。近所に住んでいると思しき、お年寄りの方々が、散歩を楽しんでいるようだった。

最近になって復元されたという、天守台からは、瀬戸内海が見渡せる。堀の水は、海水を取り入れている。


高松城は、豊臣秀吉によってこの地に封じされた生駒氏によって作られた。その後、徳川家康の孫にあたる、水戸家の松平頼重が藩主となった。松平頼重は、水戸黄門の水戸光圀の兄にあたる人物でもある。2代目の藩主は、その光国の子供がなっている。

水戸徳川家と深い関係にあった、高松松平家は、代々、中国・四国地方全体を監視する役割を持っていたといわれている。

この高松藩の中興の祖、といわれるのが5代藩主の松平頼恭。財政赤字に苦しむ藩を立て直すために、讃岐三白といわれる綿、塩、製紙事業などを育成した。



高松というと、すぐに、江戸時代の畸人、平賀源内のことを連想する。

平賀源内は、その松平頼恭に登用され、藩の殖産事業に貢献した後、藩の職を辞し、大阪、京都を経て、江戸に落ち着いた。

江戸では、全国の産物を集めた物産展示会を開催したり、静電気発生器のエレキテルを作り上げるなど、マルチな才能を発揮し、時の老中、田沼意次にもその名を知られていたという。

しかし、些細なことから、殺傷事件を起こしてしまい、その獄中、病いで命を落とした。享年52才。



平賀源内については、よく、時代が彼に追いついていなかったとか、生まれるのが早すぎた、とか言われる。

しかし源内が、たとえば現代に生まれたとして、どれほど活躍できたかは、定かではない。ライバルが多すぎて、無名の人で終わったかもしれない。

人間は、生まれる時代が違っていた、などということは、ないのではないか。

誰もが、自分の生まれた時代の中で、与えられた環境の中で、精一杯生きていく、ということなのではないだろうか。

平賀源内に限って言えば、あの時代に生まれたからこそ、今日の私たちが知ることのできる、平賀源内という人物になったのだから。


高松城の園内に、大正時代でも彷彿とさせるような、落ち着いた日本家屋が建っていた。披雲閣という名前で、かつての松平家の場内での住宅だった所を、大正6年に再建したらしい。

現在は、申請すれば、個人でも利用できる施設となっている。


二の丸の跡地にある、石垣の壁。石の積み上げ方が見事。大きな石と、小さな石を巧みに使い分けている。


天守閣に向かう堀の上にかけられている、屋根付き橋。何とも趣がある。

2013年8月10日土曜日

直島から高松へ 屋島遠景

直島の宮浦港から、四国の高松までは、フェリーでおよそ1時間ほど。高松に近づき、高松市内のビルが、どんどんと近くに見えてきた。


ひと際そびえて見えるのは、高松シンボルタワー。ここには、瀬戸内国際芸術祭2013のインフォメーションセンターが置かれていた。

その左に見える上が斜めになっている建物が、高松での宿泊先だった、JRホテルクレメント高松。昔はJAL系のホテルだったところ。


フェリーから見て、その高松市内の左手に、島のように見えるのが、源平合戦で有名な屋島。島ではなく、海に突き出た高台のようになっている。

一の谷の戦いで、源氏に敗れた平家は、一字は太宰府まで逃れたが、その後、都で木曾義仲が勢力を古い、源頼朝と争っているうちに勢力を盛り返し、この屋島の地に落ち着いた。

後白河法皇からは、三種を神器の返すように要請があるが、平氏側はそれを拒否。ついに、木曾義仲を退けた源頼朝は、弟の源義経らの軍勢を、屋島に差し向け、ついに、屋島の戦いが始まる。

この戦いでは、那須与一の扇の的や、源義経と梶原景時の軍議での対立など、さまざまなエピソードが残されている。

すぐ隣に、現在の高松市のような、暮らしやすい平地があるのに、平家の人々が、わざわざ、この島のような地に居を築いたということは、源氏からの攻撃に対する防衛ということを、何よりも優先した、ということだろうか。


高松港に近づくにつれて、お城の天守のようなものが見えてきた。これは、高松城の月見櫓。高松城では、珍しい海に面した城になっている。


ようやく高松港に到着。港には、大巻伸嗣のアート作品が、寄港者を出迎えていた。