旅の2日目。直島での時間を終えて、フェリーで高松に向かった。
岡山側の宇野から直島に来たときは、小さな船の定期船だったが、今度は、大型のフェリー。多くの車や、人々を運ぶ。
フェリーから直島を望む。下の写真の右手の方が、地中美術館のあったベネッセ王国のあたりになる。
平日にも関わらず、フェリーには沢山の人が乗っている。多くは観光客だが、中には、ワイシャツ姿のサラリーマンの姿も見える。
自分の席に向かいには、金髪で長身のイケメン外国人が一人で座っていた。ひとしきり、MACのノートブックに何かを入力し、その後は、イスに横になっていた。ライターの仕事をしている人物なのかもしれない。
このフェリーが直島の宮浦港を出たのは、午後5時頃だった。すでに夕方だが、まだ日が高く、明るいし、暑い。海の潮風が、その暑さを和らげてくれる。
海は穏やかで、フェリーはゆっくりと瀬戸内海を進んでいく。
この海を、これまでに、いったいどれくらいの人が、その潮風を受けて、進んできたのだろう。
古代の大和朝廷を築いた人々も、九州からこの海を通って、難波の地に攻め入ったという人もいる。
紀貫之の『土佐日記』に描かれたように、この海を渡り、京の都から、任地となった西の地に移動した人もいただろう。
そうした移動する貴族たちや、周辺の漁村を襲った海賊たちも、この海を使ったに違いない。
この瀬戸内海を征し、その勢いで日本も征しようとし、果たせなかった平清盛の平家一族にとっては、皮肉にも、この海が終焉の場所になった。
再び、交易によって権力を絶対的なものにしようとした足利義満、その義満の方法論を使って、西国に覇を築いた大内義隆。
そうした人々の名を上げれば、きりがない。
勿論、本来は、この海は、そこに暮らす人々の海だったのだろう。
現在は、この海も、そうしたこの地に暮らす人々の手に戻っているようにみえる。
しばらくフェリーで進んでいくうちに、左手に小さな島影が見えてきた。
右手に見えるのが女木島、左手に遠くに見えるのが男木島のようだ。
男木島は、平地がほとんどなく、人々は山に続く斜面に家を作って暮らしている。瀬戸内のアート化計画にともない、昭和40年代生まれの芸術家たちが、多くの作品をこの島に作成している。
男木島では、昔、牛を育てて、夏の農作業の時期に、四国の農村に牛を貸していた、という珍しい風習があった。
暑い中で働かされ、痩せ細って島に戻った牛たちは、港に着くと、誰に急かされることも無く、自然と自分の飼い主の家の方に向かって歩き出したという。
もうひとつの女木島。島に近づくと、”鬼ヶ島”という文字が見えてきた。
この女木島は、鬼ヶ島だった、という言い伝えがあり、鬼が住んだという洞窟も残っている。
鬼ヶ島の場所については、桃太郎伝説が残る岡山に、新羅から来た王羅が、山城を築いたのが鬼ヶ島であるという話があり、そちらの方が、一般には知られている。
ここでいう鬼とは、海賊や、まつろわぬ人々、その時代の体制に逆らった人々、という意味合いなのだろう。
瀬戸内海は、そうしたいわゆる海賊、あるいは鬼、と呼ばれた人々にとっても、故郷といえる場所だったに違いない。
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