旅の3日目は、午前中、高松城を散歩。
高松の宿、JRホテルクレメント高松からは、高松城がまるごと見えた。この左側の道は海沿いで、この城が海沿いに建てられていることがよくわかる。
まだ朝が早かったこともあって、お城の中は人影はまばらだった。近所に住んでいると思しき、お年寄りの方々が、散歩を楽しんでいるようだった。
最近になって復元されたという、天守台からは、瀬戸内海が見渡せる。堀の水は、海水を取り入れている。
高松城は、豊臣秀吉によってこの地に封じされた生駒氏によって作られた。その後、徳川家康の孫にあたる、水戸家の松平頼重が藩主となった。松平頼重は、水戸黄門の水戸光圀の兄にあたる人物でもある。2代目の藩主は、その光国の子供がなっている。
水戸徳川家と深い関係にあった、高松松平家は、代々、中国・四国地方全体を監視する役割を持っていたといわれている。
この高松藩の中興の祖、といわれるのが5代藩主の松平頼恭。財政赤字に苦しむ藩を立て直すために、讃岐三白といわれる綿、塩、製紙事業などを育成した。
高松というと、すぐに、江戸時代の畸人、平賀源内のことを連想する。
平賀源内は、その松平頼恭に登用され、藩の殖産事業に貢献した後、藩の職を辞し、大阪、京都を経て、江戸に落ち着いた。
江戸では、全国の産物を集めた物産展示会を開催したり、静電気発生器のエレキテルを作り上げるなど、マルチな才能を発揮し、時の老中、田沼意次にもその名を知られていたという。
しかし、些細なことから、殺傷事件を起こしてしまい、その獄中、病いで命を落とした。享年52才。
平賀源内については、よく、時代が彼に追いついていなかったとか、生まれるのが早すぎた、とか言われる。
しかし源内が、たとえば現代に生まれたとして、どれほど活躍できたかは、定かではない。ライバルが多すぎて、無名の人で終わったかもしれない。
人間は、生まれる時代が違っていた、などということは、ないのではないか。
誰もが、自分の生まれた時代の中で、与えられた環境の中で、精一杯生きていく、ということなのではないだろうか。
平賀源内に限って言えば、あの時代に生まれたからこそ、今日の私たちが知ることのできる、平賀源内という人物になったのだから。
高松城の園内に、大正時代でも彷彿とさせるような、落ち着いた日本家屋が建っていた。披雲閣という名前で、かつての松平家の場内での住宅だった所を、大正6年に再建したらしい。
現在は、申請すれば、個人でも利用できる施設となっている。
二の丸の跡地にある、石垣の壁。石の積み上げ方が見事。大きな石と、小さな石を巧みに使い分けている。
天守閣に向かう堀の上にかけられている、屋根付き橋。何とも趣がある。
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